浅草にある割烹家「一直」
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四方山噺
地元浅草のことや、「一直」のこと、料理についてや料理を際立たせる器のことなどを、不定期ですがお送りいたします。
【第6回】献立
料理屋の主人の朝は市場への買い出しから始まります。前日に書いておいた予約のお客様の人数と残品を持って、人数と予算に合った食材を吟味します。そして店に帰って先ずすることが献立をたてる事です。

会席料理の献立は先付、前菜、椀物、御造り、御焼物、強肴、御煮物、お食事、水菓子といった順番で出てきますが、お店によっては順番が変わったり、口替わりや八寸などを間に挟んだり、一品の量をしっかりとして品数を減らしたりと様々であります。献立はお店のお料理の方向性を決めるものですから献立をたてるにはかなりの知識と経験がなければいけません。

そういったこともあり料理屋の主人は今も昔も定期的に集まって色々なお店に行き、他のお店の献立や味の勉強をしています。各料理業界にいくつものそういった会があり、その代表的なものの一つが芽生会です。

写真は私の祖父が星岡茶寮に勉強に行った際に書いてもらった献立表です。
【第5回】砥石
料理人にとって包丁は大事なものです。出刃包丁、柳刃包丁、薄刃包丁の他にも様々な種類の包丁があり、用途によって使い分けます。また材質も青鋼や本霞、本焼などがあり、本焼の包丁は一本十万円以上するものもあります。そしてそういった包丁を何十年も使い続けるために欠かせないものが砥石です。

砥石には天然のものと人工のものがあり、種類も荒砥、中砥、仕上げ砥があります。庖丁を研ぐ事は料理人にとって重要な仕事の一つです。刃が丸くなるとすぐに包丁は切れなくなりますし、全体を均一に研がなければ形が悪くなります。一本の庖丁を長く使い続けるためには研ぐ技術と、「自分の包丁は自分で研ぐ」事が重要なのです。

右の写真は天然の仕上げ砥の周りに漆が塗られたものです。葵の御紋があるので徳川家からの頂き物だと思われますが、どういった経緯で「一直」にあるのかは残念ながらわかりません。ただ、以前お客様で刀の研ぎ師の方がいらっしゃった時に教えていただいた事ですが、天然の砥石は高価なものなので石が欠けないように漆を塗るのは正当なやり方だそうです。
【第4回】浅草花柳界(その1)
東京には現在六つの花柳界が存続しています。六花街(かがい はなまち)と呼ばれ、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、向嶋、芳町にあります。

戦前には他にも多くの花柳界があり、有名なものでは深川の辰巳芸者は羽織姿が特徴的で江戸の「粋」の象徴とたたえられ、江戸を描写 した作品にしばしば登場します。柳橋は多くの政財界の方達に愛されていました。

浅草花柳界は浅草寺を中心として栄え、地元の旦那衆によって支えられた花柳界だと聞いています。大正末期には料理屋49軒、待合茶屋250軒、芸者衆(芸妓)1060名の大所帯でしたが、関東大震災や戦争により多くの犠牲者を出し壊滅状態になりました。しかし、戦後浅草花柳界は復興し、現在45名の芸者衆が浅草花柳界の伝統、文化の継承に力を注いでいます。
「芸者さん」と言うと御座敷でお客様にお酌をするイメージが強いですが、浅草の芸者になるには多くの習い事を習得しなければいけません。踊り(花柳流、藤間流など)は勿論のこと唄、三味線、鳴り物(太鼓、笛など)や茶道など日々精進しています。料理屋は日ごろの御稽古の成果 を披露する場の一つでもあります。我々料理屋も多くのお客様に実際に観て、楽しんでいただける様、色々な企画を発信していかなくてはいけないと思っております。
【第3回】四條流式包丁の由来
「古事記」「日本書紀」に残されている逸話で、わが子日本武尊を失った第十二代景行天皇は安房の水門で大きな蛤を見つけます。その蛤を磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が膾に造って奉ったところ景行天皇は大いに喜ばれ、磐鹿六雁命は膳大伴部の役を賜りました。そして宮中大膳職として大御食の御膳部を創設せられました。

藤原時代になりまして、四條山蔭中納言藤原政朝卿が大膳職を継がれて、古来の料理法に更に海外の料理法をも広く採り入れ、四條流日本料理法というものを整えられました。同時に神饌御饌を料理する際、魚鳥等の材料に直接手を触れず、俎箸と包丁刀をもって、清らかに包丁捌きをする型式をも定められました。これが四條流の始まりであります。

日本料理業界並び調理士界では磐鹿六雁命を料理の祖神と崇め、四條山蔭中納言卿は料理中興の祖神として尊ばれて居ります。

浅草では戦後昭和二十七年から「一直」を道場にして四條流東京一饌会が発足され包丁式の稽古が行われてきました。一饌会の成り立ちは、明治の中頃に食物研究という会があって、四條山蔭中納言卿の流れを汲む江戸町料理人頭取、八代目の石井治兵衛先生より全国有名料理店の主人方が多数参加して新古料理は勿論の事、むきもの、水引の結び方又は婚礼儀式飾りなど教授を受けていました。その中の一つに包丁式も入っており、主に包丁式は治兵衛先生がその他は九代目の泰次郎先生が教えていました。

「一直」の四代目の松三郎は泰次郎先生と親しく、その縁で五代目の林造も包丁式はもとより料理の儀式全般にわたって教えを受けていました。その後五代目は一緒に教えを受けていた人達やその弟子の人達と共に四條流東京一饌会を発足したのです。

右の写真は東京芽生会の全国大会で歌舞伎座で包丁式を行っている五代目の写真です。

尚、一饌会の包丁式の稽古は場所を同じ浅草の「婦志田(ふじた)」さんを道場にして、今なお熱心な料理人の人達によって続けられています。
【第2回】浅草では毎年五月に三社祭が行われます
浅草では毎年五月に三社祭が行われます。三社とは浅草寺のご本尊観音様の「御示現」に関わったとされる郷司の土師中知と兄弟漁師の檜前浜成と檜前竹成の三人を指します。今では「一之宮」「二之宮「三之宮」の三体の御神輿ですが、戦前には七体もの御神輿があり、中には徳川家光により寛永十四年(1637年)に建造寄進されたものもあったそうです。

さて、この期間浅草花柳界でも「くみ踊り」というものが行われます。花柳流の芸者衆による「やなぎ」、藤間流による「藤」、昔ながらの手古舞姿に扮した「はな」、幇間衆による「於八七」の四つの「くみ」が作られ、それぞれ特別な踊りを披露します。

「一直」でも三社祭の時だけ使われる器があります。御神輿の器で写真のように前菜として使われます。戦後に五代目が竹細工屋さんに特別に作らせたそうです。

このように三社祭は浅草花柳界にとっても特別な日です。もし興味を持たれましたらぜひとも足を運んでいただけたらと思います。
【第1回】江戸料理とは
たまに江戸料理を食べてみたい、江戸料理とはどういった料理を言うのか質問されます。歴史的に言えば、江戸料理とは大名料理がルーツになっています。それに対して京都料理は公家料理、大阪料理は商人料理がそうでしょう。江戸時代には大名お抱えの料理人しかなく、初めて独立を許された会席料理屋が八百善さんだと言われています。当然のこと、その当時の江戸料理は品数も多く、特に献立の中の口取りなどは現在のおせちの様に硯箱といわれる様な塗りの器にぎっしりと詰められ、それを取り分けて食する様な様式が行われていたようです。また参勤交代で江戸に出てきた大名達が国に帰るときにも道中で食べられるようにと詰めて持ち帰らせるため、現代と違って当時は保存技術も交通手段も発達していなかったので、料理は味付けをかなり濃くして日持ちがするようにしていました。よく東京の料理は色が濃くてからいと言われたのは、こういった折詰料理と蕎麦屋の汁の印象が残っているせいだと思います。また、長い時間持ち運ばれるものですから料理の詰め方にも工夫がされています。一つ一つの料理が崩れないように大きさを揃えられ区切られた枠に隙間ができないように詰められました。今でもおせち料理では東京の料理屋はこの詰め方をしています。これも大名料理の名残の一つだと思います。右の写真は昔「一直」で作ったおせち料理です。

食材においても当時は東京湾の魚や川魚、近くで作られた野菜を使っていました。しかし、関東大震災後に銀座を中心として板前仕事をお客様にお見せするカウンター料理を主とした関西の料理屋が東京に進出してきたことと、流通、情報の進歩および関東関西の人的交流も深まったことで、様々な食材や技法が取り入れられるようになってきました。これにより日本料理は一つの進化を遂げ、江戸料理と関西料理といった垣根は低くなり、現代の会席料理として受け継がれています。

「一直」も今回リニューアルに伴いカウンターのお席をご用意しました。元来東京の料理屋では調理場は楽屋裏の仕事でお客様にお見せする場所ではなかったのですが、「一直」も新たな進化を遂げるために一歩を踏み出すことになりました。

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